帰宅した妻は、真っ裸だった。結婚してから、何度かこういうことはあった。その理由について、敢えて問うことはしなかった。何か事情があるとは思ったが、その事で何か生活に支障をきたしたことはないし、普段はちゃんと服を着ているのだから。
ただ、裸になった日の深夜、決まって妻は猛烈な寒気に襲われ、真夏でも毛布を何枚も掛けて介抱することになった。しかし不思議なことに、翌朝の妻はそれをこれっぽっちも覚えていなかった。
「アーケード街に新しいお店がオープンしてた。でももうラーメン屋はうんざり」
バラエティ番組をつまらなそうに眺めながら、妻は言った。
「そうかな」と僕は答えた。その答え方に対する妻の反応は、やや不服そうだった。
「実家にお金振り込んでおいたから。あと自動車保険も。失業保険なんて貰っても右から左」
今日の妻はいつになく元気がなかった。いや、元気がないというより、これが年相応なのかも知れなかった。さっき玄関で正視した妻は、若い頃より胸が随分縮んでしまったように見えた。乳首は落ち窪み、陰毛には白いものも数本混じっていた。
「たまには外食でも良かったかな」
「余計な出費よ。家にあるもので充分」
唇にふりかけの海苔をつけたまま、妻は不機嫌そうに言った。唇は充分手の届く距離にあったが、きっと僕なんかに触れられたくないのだろうなと思うと躊躇した。言われてみれば、妻をねぎらおうとする僕の選択肢は、いつもお金を使うことばかりだった。
「裸で擦れ違っても誰一人振り向いて貰えないとか、寂し過ぎると思わない?」
妻は突然その話に触れた。僕も逆らわず、慎重に言葉を探した。
「全てを晒け出してしまうのは、却って警戒されるのかもしれないね。晒す方も晒される方も、どちらも慣れていないんだよ」
我ながら上手い事を言ったと思ったが、言い終わるが早いか、妻は食卓に突っ伏して泣き始めた。僕はそれ以上話し続ける訳にはいかず、ただ妻を見守った。妻の身に寄り添うということについて、僕は真剣に考えた。妻が裸で外出する時は、一体どんな気持ちなのだろう。
テレビを消し、食べ終わった食器を下げ、やかんに火を掛けた。お湯が湧くまで、僕には妻の背中をさすってあげることしかできなかった。
翌日、妻は何事もなかったように出勤した。思った程、悲愴な感じではなかった。今日はしっかりと服を着ていた。ただ仕事にしては、やや派手な印象も受けた。昨夜は例の寒気に襲われることがなかったのは幸いだった。
戸締りを確認してから僕も職探しに出掛けることにした。妻に寄り添うことについて、往生際の悪い僕はいまだ結論を出せずにいた。
通勤電車には、何人か裸の人がいた。注意深く見てみると、老若男女の別なく案外いるものだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。いや、気付いていたけれど、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
駅を降りると、僕はベンチに鞄を置いて靴を脱ぎ、それからポロシャツとジーンズを脱ぎ、最後に下着を脱いだ。ラッシュアワーでごった返すホームでは、そんな僕にお構いなく、皆それぞれ決められた目的地を目指して急いでいた。僕に体当たりしたり、足を踏みつけたり、股間に鞄をぶつけたり悪意があるとしか思えない人間もいた。人生の中でこれほど心細く、孤独を感じたのは初めてだった。
僕は完璧に無防備だった。裸では、何かを隠し持つという概念そのものが失われた。しかし悪意を受け入れる方が、無視されるよりまだましかもしれなかった。
目の前に、裸の妻が立っていた。派手な服はどこかに消えていた。僕は無我夢中で妻を求めたが、重ねた唇も腕を回した腰の感触もことごとく、まるで知らない誰かの様だった。(了)
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