昨日、都心に出掛ける機会があり、座って電車に乗れたので、ちょっと読書の時間がとれました。実に久しぶりの読書でした。ここのところ、朝もまともに起きられず、ずっとPC脇に積まれて塩漬けされていたチャールズ・バクスター「見知らぬ弟」。途中まで読んで、ずっとそのまま放置していました。
バクスター、やっぱりいいですね。
本当、フィーリングが合うという感じで。何ていうか、何十年も一緒に生活をしてきた夫婦というか。あうんの呼吸でお互いの考えていること、思っていることが言わなくても分かるという感じで。
ショップに例えると、わざわざ店員を呼ばなくても食器が下げられ、食後にコーヒーが飲みたいなあ、と思っているとそのタイミングでコーヒーが出てくる。お腹一杯なのにヘビーなものを無理やり食べさせられるわけではなく、まだ食事中なのに勝手に料理が下げられるわけでもなく。
この辺りの「あうんの呼吸」が提供する側のショップと顧客側である自分のテイストとが実にマッチしているんです。だから、何度でも、あの居心地のいいショップに行きたいと思うし、行けば期待を裏切らないでいつでも自分を受け入れてくれる。バクスターやレイモンド・カーヴァーは自分にとってそんなショップ(作家)なのです。
バクスターもカーヴァーも、中身は、短編とはいえ決して軽くはありません。人間関係のいいところも嫌なところも多彩に散りばめられています。どこにでもありそうなテーマを、分かりやすい言葉とメタファーで、実に深く濃く探っています。付かず離れずの適度な距離感。特に熱く、時にクールで。
今回の「見知らぬ弟」の田口俊樹氏の訳も、実に自然に溶け込んでくる名訳でした。アメリカ小説というカテゴライズも無意味なほど、向こうの世界がリアルな現代の「日本の世界」として「日本人」である僕にも抵抗なく受け入れられました。
日本では短編小説より長編小説の方が価値が高い(商業的に?)と思われがちですが、短編であっても、充分長編の世界を内包し凌駕する世界を構築できると信じていますし、またそれが評価される時代がいつかきっとくる筈、と。
読み手ではなく小説を書くという立場の人間としては、先達の作家たちを真似たり、追随しようなどとは考えずに(もちろんできるはずもないし、そんな力もない)、“僕にしか書けない短編”とは一体何なのかということを、生涯をかけて探していけたらいいのかな、と。
それにしても、電車に乗ってしばらく本を開けていると、すぐにこっくりこっくりし始める癖は…どうにかなりませんかね(-_-;)。