樹海パトロール

 舗装された県道から一歩山の際に分け入ると、背丈ほどもある植物の群生と小枝の間隙に、ぽっかり穴のように開いている道が見える。
「自殺志願者」によって繰り返し踏みしだかれ形成された樹海の奥深くに通じる道は、狂おしい真夏の喧騒とは裏腹に薄暗い冷気と静寂に包まれ、道行く者を世間とは隔絶された別世界へと誘っていた。
 木村の足取りはいつも以上に重かった。こうして山に入るのが、自殺志願者の説得よりも、死体を見つけることの方が多くなっていたからだ。蛆が湧いてるものや既に白骨化しているもの、まだ死んで間もない体温の残されたものまで様々だった。
 そんな無造作に投げ捨てられた人の「死」ばかりを見ていると、「死」への恐怖が薄らぐどころか、生と死の境目すら見分けがつかない錯覚に陥った。
 いつもの場所。いつもの気配。
 先には、少しだけブッシュの途切れた踊り場のような空間があり、縄を掛けやすい手頃な大木が枝を張り出していた。そこは樹海の中でも飛びきり自殺者の多い首吊り場だった。数日に一体は必ず死体が上がり、その度に木村は木にくくりつけられた太い紐を鋏で絶った。
 黙ったまま歩みを進めると、踊り場にいた男は驚いたように振り向き、慌ててロープの輪から手を離した。

「そんなに死を急ぐことはない」
 切り株に腰を下ろして、木村は真っ白な揉み上げに手を当てた。男はチェックのシャツにジーンズを履き、髪も短髪に刈っていた。見るからに自分よりずっと若かった。恐らくまだ五十代ではないか、と木村は踏んだ。
「何があったのか知らないが」
 男は訝しげに木村を見つめていたが、「パトロール隊」の腕章に気がつくと、死を先延ばしにされた悔しさか、あるいは緊張から解放された安堵からか、がくんと項垂れて木村と同じくその場に腰を落とした。
「死にたいのはこっちの方さ。まあ、放っておいても後少しで死ぬがね」 
 ヤッケの胸ポケットからセブンスターを取り出し、木村はライターで火を付けた。男にも勧めてみたが、男は申し訳なさそうに木村の差し出した手を拒んだ。
「自分ばかり不幸な気がするもんだよ、追い詰められるとね。俺で良ければ、話聞くよ?」
 自殺志願者に接する時は、まずは徹底的に話を聞く。話を聞いてくれる人がいる、と分かっただけで死なずに済むケースはたくさんある。
「リストラにあってから、次の仕事先がなかなか見つからなくて」と男は小さな声で話し始めた。「妻にも愛想尽かされ、この先、生きていく希望が」
「気の毒だね。まだ若いのに」
 煙を大事そうに呑み込みながら木村は言った。
「とにかく、仕事さえあれば」
 男は天を仰いで両手で顔を抑えた。
「仕事ねえ」
 足元の団子虫を靴ですり潰しながら、溜め息をするように木村は言った。
「私は事業で三回失敗してるんだよ。資金を持ち逃げされたり、空き巣に入られたり、とにかく金に縁がなくてね。だから借金も家が何軒か建つくらいまだたくさん残ってる。妻は結婚してから数年で事故で亡くした。思春期の子供はぐれまくって何度か刺されたことだってある。家を飛び出してから消息不明。生きてるのか死んでるのかも分からず。病気だって頭の病気以外はほとんどやった。今こうして吸ってる煙草は、もうきっと最後。癌が肺に転移してるからね。どのみち、生きていても私の命なんてあとこれっぽっちもない。あんたも辛いだろうが、世の中にはあんたよりもっと辛い思いをしている人間なんてごろごろいるんだよ」

 木村はそう言うと、突然噎せるように激しく咳込み始めた。男は木村の元に近寄り、大丈夫かと声を掛けながら背中を摩った。
「大丈夫、大丈夫」と男の手を制するように、木村は煙草を踏み消して呼吸を整えた。
「あんた優しい男だね。死ぬのはまだもったいない」
 木村は「パトロール隊」の腕章が付いたヤッケを脱いで男に手渡した。「一度は死のうと決心したんだから、あんたならこの仕事勤まるよ。ずっとこの日が来るのを待っていたんだ。たぶん、誰よりも死にたいのは、俺自身だから」
 木村はおもむろに立ち上がると、そのまま男が先程木に括った縄を自分の首に掛けた。「黙って見てなよ。首を吊るってどういうことかを。あんた、とてもいい相談員になれるよ」

 そう言うと、木村は静かに目を閉じて両手を首から離し一瞬で宙に舞った。がたん、と一度大きな音がした後は、全くの無音だった。鳥の鳴き声や風の音さえしなかった。項垂れた木村の顔は既に青くなっていてズボンが小便で濡れていた。
 男は空を仰いだ。雲がとても速いスピードで頭上を通り過ぎていた。上着を脱ぎ、木村から渡されたヤッケを羽織った。サイズはぴったりだった。「パトロール隊」の腕章をぎゅっと握りしめた。胸元から、煙草の匂いがむっと立ち込めた。でもそれは男にとって決して嫌な匂いではなかった。
 宙に浮いたままの木村の亡骸に、男はしばらく深々と頭を下げ、元来た道を引き返して行った。しばらく経験していなかった、微かな「希望」のようなものが少しだけ湧きあがって来るのを感じていた。
 こうしてまた一人の「自殺志願者」が、「樹海パトロール隊員」のおかげで死を免れた。(了)

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