二百円

 盛夏のある日、小学生だった僕は塾に向かうため私鉄の駅に向かって歩いていた。大半の小学生がそうであるように、僕の喉も四六時中渇いていた。自宅と塾の丁度中間地点、シャッターが開いているのを見たことがない薄汚れたその商店の自販機でスプライトを買うことが、僕の日課であり楽しみだった。
 その日も頭の皮が剥けるほどの陽の光を浴び、体中から汗が湧き出ていた。ようやく辿り着いたオアシスのような自販機の前で、ポケットに忍ばせた百円玉をいつものように落としてみたが、どういうわけか商品ランプは光らず「売り切れ」の表示も出なかった。
 試しにスプライトのボタンを押してみるものの予想通り反応はなく、他のコーラやファンタでも結果は同じこと。更に返却レバーを何度上げ下げしても、がちゃがちゃ空しい音が響くだけだった。
 百円とはいえ、当時ではなけなしの小遣いの一部である。しかし気の弱い僕は、その悔しさを誰かに訴えられるほどの度胸はなく「今日はついてなかったんだ」と、そのまま諦めて塾に向かうことにした。
 五十メートル程進んだところで、やっぱりどうにも納得できず、もう一度自販機まで戻ることにした。ひっかかっていたお金が落ちて、今なら買える状態になっているかもしれない、と思った。
 しかし、結果は同じだった。自販機は何事もなかったまま黙ってその場に鎮座していた。返却口を確認し、もう一度全ての飲み物ボタンを順番に押してみたが無駄だった。余計に歩いた分、喉の渇きが更に酷くなっただけのことだった。
 あまりの悔しさに、僕は半ば自棄になっていた。財布の中の最後の銀貨を改めてもう一枚、目を閉じ祈るような気持ちで自販機の投入口に入れ、十秒間、じっと息を押し殺した。しかし祈りは通じず、自販機は稼働しているのかいないのかも語らぬまま、僕のお金だけを捲き上げるだけ捲き上げて、結局何の見返りもよこさなかった。
 普段温和な僕でも、さすがにこれには怒りを覚えた。無意識にコインの投入口に手の平を打ちつけていた。道行く人が「何事か」と怪訝な表情で僕を眺めた。僕は視線に気付くと、それ以上叩くのは止めた。けれど、このまま二百円だけをとられて、何もせずに黙って塾に行くのは我慢できなかった。子供ながらに、こんな理不尽があってはならない、と思った。

 商店と自宅が一体となった建物の玄関は、脇の路地を入っていくと反対側にありそうだった。商店の前にある自販機なのだから、当然持ち主はここの商店主だろう、と僕はかすかな希望を胸に路地を進んだ。
 この暑さにも関わらず、路地の日陰は少しひんやりしていて、等間隔に置かれた石畳の縁には、薄汚れた苔がたくさん生えていた。僕の住んでいるマンションとは全く違う、生臭い木や植物の匂いが、狭い路地一杯に立ち込めていた。
 裏手に回ると、案の定玄関があった。大した広さではないが、庭も少しだけあった。玄関には、チャイムがない代わりに引き戸が半分近く開いていた。
「すいません」と、僕は声を上げた。度胸のない僕なりに、勇気を出して力一杯。
 僕は耳を澄ましたが何も応答はなかった。留守なのだろうか。僕はもう一度「すいません」と言った。かたり、と何かが動いた音がした。間違いなく家の中からだった。
「悪いね。爺さんに飯の支度しなくちゃいけねえもんで」と、「孫の手」を持った婆さんが奥からゆっくりと出てきて、僕に言った。髪は既に真っ白で、背中は弓のように曲がっていた。
「ちょっと上がって、ぼっちゃんも一緒に食べて行くかね」と婆さんは言った。
「自動販売機にお金を入れたのに、ジュースが買えなく」
「何だって? 耳が遠いもんでよく聞こえねえんだよ」
 僕はこれ以上出ないくらいの大きな声で、ゆっくりと婆さんの耳元でお金を返して欲しい旨を訴えた。
「あれは、爺さんじゃなきゃ分からねえんだよ。習慣だったからね、箱の中のお金数えること。悪いけんど、爺さんに聞いてもらってもいいかい。そこに寝てっから」
 僕はどういうわけか家の中に上がらされて、玄関の上がり框から直ぐ隣にある和室に行け、と促された。二百円さえ返してもらえればそれで良かったわけで、人の家に上がり込む程深入りしたくはなかったが、爺さんに会わなければ解決しないようなので、仕方なく靴を脱いだ。
 家の中はエアコンはおろか、扇風機すら回っていなかった。そのせいか、少しだけ何とも言えない妙な匂いが立ち込めていた。それは食事の支度中なんて匂いではなく、むしろ吐き気を催すような不快なタイプのものだった。
 和室には、真っ白な大きい布団に、痩せた年寄りが一人眠っていた。僕は眠っている人に声を掛けていいものかとしばらく悩んでいたが、匂いと一緒にこの部屋全体に漂う「違和感」のようなものを感じていた。その元凶が、おそらく今眠っているこの年寄りから発せられていることを直感した。
 年寄りは、仰向けのまま直立不動の状態で、お腹にタオルケットを巻いてじっとしていた。浴衣の肩口から覗く肌の色はもうほとんど紫といってもいいほどの色だった。顔も同じように肌色というよりは紫に近く、眼は半分くらい開いていた。口も開いてはいたが、上も下も、唇全体が奥の方に丸めこまれていた。
 庭の蝉の鳴き声が一巡すると、やがて静まった。静まった後も、目の前の年寄りは動き始める気配も話し始める気配もなく、ただそこにじっとしているだけだった。
 半分開けた瞼から覗く目は、ほとんど黒い部分がなくなっていた。呼吸をしている感じもない。ともかく、異臭ばかりが露骨に僕の五感を狂わせた。蝿なのか蚊なのか分からない小虫が、ふらふらと僕の目の前を横切った。とどのつまり、今僕の目の前にいる年寄りは、死んでいるのが明々白々だった。
 これほど間近で「死者」の気配を感じたのは初めてだった。僕は怖くなって、玄関に取って返した。廊下の床がぎしぎしと軋んだ。玄関には婆さんが立っていた。今度は「孫の手」の代わりに、新聞と長財布を抱えていた。
「もう帰るん?」と婆さんは言った。顔が小刻みに左右に揺れていたが、視点だけはぶれずに僕を捕えていた。
 僕は何も言わずに靴を履き、ほとんど息を止めた状態で逃げるように家を飛び出した。一度も後ろを振り返ることはなく一目散に塾に向かった。もう、自販機に収まった二百円などどうでもよかった。今見た光景を一刻も早く忘れたかった。

 それから十数年の月日が経過した。
 何の因果か、僕はその後大手不動産会社に就職し、地元の開発担当になった。その商店があった辺りには、これも何の因果か、自社物件のマンションが建っていた。建築後十年は経過していたが空室はなかった。駅から近いことと、価格が安いことが好評だった。

 その後、あの老夫婦がどうなったのか僕は知らない。ただ、あの夏の日の光景は今でも薄れることはなく、その場所に近づく度、白黒の挿絵のように脳裏に浮かび上がってくる。
 そんな時、僕はマンション前の自販機でスプライトを買うことにしている。昔商店のあった辺りに、何故か今でも自販機だけは置いてあるのだ。もちろん、当時より格段にマシンが良くなっているのでお金が吸い取られるようなことはない。ただ値段は少し上がって百円玉一枚では買えないが。
 住人の大半は市外からの購入者であり、若い世代のファミリーだった。当然彼らはここにそんな商店があったことも知らなければ、ましてこの自販機にまつわる僕の記憶もエピソードも知る由はない。もっとも、そんな個人的な話はマンション購入者への告知義務ではないし、年寄りが死んだ話など余りに普通過ぎて、他人にとっては話しとしての価値もないだろう。あくまでも僕にとっての古い記憶というだけのことだ。
 もう一つ、あの頃と大きな違いがあるとすれば、それは僕が買ったスプライトの売り上げの一部は、老夫婦ではなくわが社の売り上げになるということだ。そこから給料を貰っている今の現実を考えてみれば、当時失った「二百円」は、長い長い年月を経て、途方もない利息付きでようやく老夫婦から返金されたのだ。(了)

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