夏祭りの夜、少年は、とある企みが気掛かりで中々寝付けなかった。夜中に何度も目が覚めて時計を確認した。早く朝になって欲しかった。いや完全な朝ではなく、夜の終わりくらいの時間に。
4時半。隣に母の気配がないことを確認すると、少年はいよいよ家を飛び出した。住宅が建ち並ぶ裏山の稜線に、色の違う空が伸び始めていた。外は案外涼しかった。
昨夜の賑わいが夢だったかのように、公園はしんとしていた。隙間なく並んだ屋台にはそれぞれブルーシートが掛けられていた。焼きそばのトレーや割り箸、紙コップなどが植え込みのあちこちに捨てられていた。
少年はペンライトを取り出し、入口のお好み焼き屋から順に地面を照らした。間もなく、百円玉が屋台の脚に隠れて落ちているのを見つけた。
しめしめ、少年は硬貨を持参したスーパーの袋に入れた。次はチョコバナナの店。同じように、十円玉と五十円玉をゲットした。射的コーナーは大収穫だった。丁寧に折り畳まれた千円札がテーブルの隅に落ちていた。少年は小さくガッツポーズをした。お札は貴重だった。自分が一気に大金持ちになった気がした。
粗方回り終えると、少年は袋の中を覗き込み一人ほくそ笑んだ。既に二千円近くになっている筈だった。小遣いなど殆ど貰えない少年にとって、夏祭りは年に一度の臨時ボーナスだった。
締めくくりはじゃがバターの店。少年はパイプ椅子とせいろを照らした。ぴかりと何かが反射した。五百円玉だ。最後に相応しい幸運だった。
少年がそれを拾おうと屈んだ瞬間、何者かに恐ろしい力で手首を掴まれ、硬貨に向かう別の手指があるのに少年は肝を潰した。どこから現れたのか、顎に沢山の髭を生やした薄汚れた男だった。少年は尻餅を付いた。男は五百円を手にすると、少年を鬼の形相で睨みつけながら何か音を発した。それは言葉というより呻きに近かった。少年は息を飲んだ。殺されるかもしれないと思った。
少年が動けないでいることをよそに、男は隣の屋台に標的を移した。その隙に少年はビニール袋の口を握り締め、一目散自宅に走った。一度も後ろは振り返らず、途中何度もサンダルが脱げそうになりながら。スーパーの袋は机の引き出しに押し込んだ。収穫物を確認する余裕などなかった。身体を震わせたまま、布団に潜りこんだ。臆病な自分に辟易した。すっと障子が開いた。「真司」と母は言った。母が帰宅しているとは思わなかったので、少年はもう一度肝を潰した。
あれから二十年、少年は父になっていた。何の因果か、かつての団地に住んでいた。母は既に病いで他界していた。扇風機が弱々しく回る部屋で、妻子はまだ夢の中だった。彼は早朝4時にそっと布団を抜け出し、暗がりの中、昨夜の夏祭り会場へと向かった。娘が小銭入れをどこかに落としてしまっていた。近所の夏祭りは今でも続いていた。
樹木も屋台も、まるであの当時のままだった。男はどこかわくわくしていた。ヨーヨー掬いの近辺が怪しかったが、小銭入れはなかった。その代わりに百円が落ちているのを見つけた。なるほど、男の胸はときめいた。
良からぬ気配が、一陣の風のように硬貨を掠め取った。男は咄嗟に年寄りの頭を力任せに殴った。拳に激痛が走り、年寄りはその場にうっぷした。口元から血が流れていた。見覚えのある和雑貨が、年寄りの手の中に握り締められていた。汚い男の手に一度でも渡った物など、娘に使わせる訳にはいかなかった。新しいの買ってあげなくちゃ。涙が止めどなく流れ、拳の震えを抑える事ができなかった。
犬を連れた女が、二人の顛末を見つめていた。今日という日は既に始まっていた。しかし男は昔のように、もうその場を逃げ出すことはなかった。(了)