「文系」と「理系」

色々な人と会話する中で、「ねっからの文系だから」とか「貴重なリケジョ」とか、「文系」「理系」を話題にすることは多くないですか?
あるいは、自分の興味や関心、得手不得手に対する言い訳を「僕は文系だから」「私は理系だから」とくくってしまってないでしょうか。

■「文理分割」の功罪

振り返れば、高校2年生くらいの頃までは、特に自分が文系だからとか、理系だからとかの分け隔てはなかった筈。
関心のあるものは何でも興味を示して、探求しようとしましたよね?
勉強しよう、と思う最初のモチベーションは、「興味」とか「好奇心」。

「どうして空は青いの?」
「物体の元になる原子って何?」
「何でラジオって音が聞こえるの?」
「宇宙って何? ブラックホールに入るとどうなるの?」 etc.

とにかく、僕から見ると、「理系」の分野に、興味深いテーマは、いくらでもありました。
それが大学受験あたりを契機に、どちらかを選択しなくてはならなくなって、将来「文筆」に携われる仕事を想定した結果、「文系」を選択することになりました。更に私大志望だったので、勉強するのは「国語」「英語」、そして選択科目としての「日本史」以外勉強することがなくなりました。

それ以来、所謂理系科目の「数学」や「化学」、「物理」などの科目は、小学生から学んできた知識の大半を忘却、結果「自分、文系なんで、理系の世界はさっぱり分かりません」ということになってしまいました。
(もちろん本当に興味があれば、独学で勉強を続ける手段はありましたが、お受験の渦中にいる身としては、そんな余裕はありませんでした)

今思えば、何とももったいないなあ、と。
若い頃の、一番知識を吸収できる時期に、方向性を二者択一に決め付けてしまい、「一方は受験に関係ないのだから、勉強しなくてもいい」だなんて。

これには、大学受験そのものの仕組みとか学校教育、企業の求人にも問題があるのかもしれませんが、本当にそれでいいのでしょうか。「理系」と「文系」をすぱん、と分けてしまうやり方。人材を「理系」や「文系」で求めるやり方。

現在の大学センター試験(僕の時代は、共通一次試験といいました)では、満遍なく文理をこなす必要はありますが、それも大学に進んでしまえば、文系理系学部に分けられてしまいます。

■イノベーティブな「小説家」

社会に出て、僕も20有余年、様々な人、様々な企業と出会う中で、「斬新なアイデア」とか「イノベーション」が求められる時代、今までのカテゴリーや常識には囚われない発想豊かな人材の重要性は、ますます高まっているように感じています。

特に、この文系、理系を明確に分け隔て、そのカテゴリー内の専門性に嵌めこんでいく教育スタイルというのは、どうも個々人の能力ののびしろにタガをはめてしまうような気がしてなりません。

文系と理系

確かに一つの領域を極めるという発想は、自主的に研究テーマを据えて知識を習得していこうとする義務教育の先の「大学」という教育機関の存在理由だとは思います。

ただ、閉塞した時代を突き動かしていく、新しい発想、常識の打破などは、本来その領域を担っていた「文系」「理系」のカテゴリにはあまり当てはまらないような人材の能力開発が、一方では必要な気がします。

文系的直感力のある理系人材、理系的論理性のある文系人材のような、クロスオーバーの能力を磨いていくことがいかに大事であるか、ということを、最近特に実感しています。
元々分け隔てなく持っていたはずの好奇心、興味を、大人になった今こそ解放する時なのではないかと。(昨今の大学での、この「文理融合」の波は、正に社会側からの要請に基づいた動きなのでしょう)

大人になって、社会に出てから、その職域の「道を極める」ということは当然としても、停滞感や閉塞感を打ち破り、何か新しい局面を切り開いたり、清新な発想力、想像力を奮い立たせようと思ったならば、少なくとも自分とは専門外(と思ってきた)の分野に、意識的に関心を持とうとすること、それによって隠されてきた自身の能力が再開発されるという可能性もあるのではないかと思います。(実際にイノベーティブな人達って実に好奇心旺盛ですよね。多趣味ですし)

文系のあなたは、もっと自然科学に興味を持ってみよう。
理系のあなたは、もっと美術館に足を運んでみよう。

ひょんなことから、新しい視野が開けるかもしれません。

僕自身も、小説のテーマやモチーフがある特定の領域だけに偏向しないよう、また新しい文体、文法を開発する為にも、意識的に異分野の刺激を求めていこうと思います。

イノベーティブな小説家を目指して。

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