②生きること
何だか身も蓋もない言い方ですね。
読書はとても大切。しかし頭の中で「疑似体験」するだけではなく、リアルな世界に飛び出して、社会での様々な経験を通じながら、見聞を広め、肥やしにしていく、ということです。
とにかく、いろいろな世界に触れ、いろいろな人に触れ、生身の体と意識を開放して、素直に受け入れること。思い切り感じること。考えること。
僕が学生の頃好きだった作家に寺山修二という劇作家がいます。
「書を捨てよ、町に出よう」という著書は、おおよそ上記のようなニュアンスだった、と記憶しています。
「本をたくさん読め」と言っておきながら、「書を捨てよ」とは甚だ矛盾しているようではありますが、自分以外の多くの他者に触れたり社会に触れることは小説のバリエーションやネタ作り、所謂「リアリティ」をもたせるには欠かせません。
実際に目の前で「人が事故で亡くなった」というシーンを書くのに、これまでの書物やテレビで見たことのある「人が事故で亡くなった」シーンを想像して書くのと、自分の目の前で、本当に「人が事故で亡くなる」経験をして書くのとでは、表現の「リアリティ」に格段の違いが出てくる、ということです。書くポイントも書き方そのものも変わってくるのではないでしょうか。
もっとも、理屈では理解していても、こればかりはしようと思って出来る経験ではありませんから、ある程度年齢を重ねるに従って、自然に「経験させられてしまうもの」もあるかとは思いますが、少なくとも、自分の「殻」に頑なに閉じこもって、自分以外の世界を受け入れない、ということではいつまでたっても人間としての深みが生まれず、従って、そういう人の書く「小説」というものも、独りよがりな世界観を押し付けたり、何作書いても「焼き直し」したものしか書けなくなってしまうような気がします。
「町に出よう」という意味は、そうならないためにも、自分を外に向けて解放し、さらけ出し、視野を広く持ち、心を閉ざさないようにするためでもあるのです。
時には、大きく傷つくこともあるかもしれない。
否定され、拒否され、疎まれることがあるかもしれない。
しかしそれ以上に、人の優しさに触れたり、気付きがあったり、知見が深められたり、新しい出会いやネットワークができる、ということもあります。自分でも「想定外」の。
心を閉ざさないことによって得られるこうしたことは、想定外であるが故に、何物にも代えがたい、お金では買えない「財産」であり、間違いなく自作に生きると。
手垢のついた、ありきたりな「他人の言葉」を使って小説を書くことが徐々に少なくなって、自分の体験から絞りだした言葉を使うことで、作品に迫力を持たせ、リアリティを帯びさせる。
若くしてプロの「小説家」ともなってしまうと、外に飛び出して幅広い世界を体験するという、こうした機会が奪われてしまう(狭められてしまう)ことが往々にしてあり、気の毒に思うことがあります。
仮に、僕がどこでどう間違って「プロ作家」と名乗るようになったとしても、小説の登場人物に「作家」を登場させたり、「旅行日記」の延長線のようなものを「小説」と称して書き始めたら終わりだと思っています。
僕の小説を読んでほしいと思う読者は、「作家」の周辺にも、「海外」にもいないからです。
あなたの小説は、一体「誰」に向かって「何を」語っているのか。
この辺りのことはまた次の機会に。(→続く)