人には言えない××

 その尋常ならぬ違和感に気が付いたのは、三日前、トイレで便座に腰を下ろした時でした。「尋常ならぬ」というのは正に字義通り、日頃の一連の排泄行為では感じた事のない、ぼんやりした不安が具象化したような違和感でした。
 私はその時ぴんときました。これは「人には言えない××」ではないかと。そのような言葉を使った事もありませんし知識もありませんでしたが、その文言だけ、誰かがそっと私の記憶の倉庫に置いていったようでした。
 取り急ぎ用を足し、何事もなかったように私は取り繕い、妻の作った昼食に手を付けました。妻はいつも以上に私に視線を向けているような気がして、少し混乱しました。私の挙動がおかしいことに気付いてしまったのではないかと。何せ、私は今人生で初めて「人には言えない××」を抱えてしまったのですから。
「顔色が良くないけど」と妻は言いました。「調子悪いの?」
「少しお腹が壊れてるんだ」
「じゃあ、こんな脂っこいの駄目じゃない」
 目の前の焼きそばを妻は下げようとしましたが、私は「後で薬を飲むから大丈夫」と妻の手を制し、食器を引き寄せました。お腹は空いていましたし、別に本当にお腹が壊れているわけではありませんでしたから。
 その日の晩、布団に入るや妻が私の背中越しに身を寄せてきました。手を繋ぎ、額を肩につけて「ねえ」と私を誘いました。
「ごめん、今日は疲れてて。それに」
 私はつい「人には言えない××」について話そうとしてしまいましたが、それについては触れないでおきました。話したところで妻には理解されない気がしましたし、そんな抽象的で曖昧な理由の為に、夫婦生活がぎくしゃくするのも嫌でした。
「まだ、お腹の具合がいまいちなんだ」
「だから言ったじゃない」
 妻はがっかりしたように言いました。
「薬は飲んだの?」
「うん。今眠れば、明日にはもう治ってるよ。だから今日はごめん」
 妻は首輪の付いた捨て猫を見るような目で私を見つめ、それから反対側を向いて間もなく寝息を立て始めました。私は心から申し訳ない気持ちで一杯でした。本当ならば、今日は子作りに最適な日であることは分かっていましたから。
 
 夜中、私はふっと目を覚ましました。同時に、「人には言えない××」が気になりました。それが気になって目覚めたみたいでした。
 直ぐにトイレの鍵を閉め、下着を脱ぎました。「人には言えない××」は肥大化し、本来の肌の色とは全く違う色に変色していました。無残であり醜悪でした。それは観念ではなく実体でした。最早回復の見込みのないことが一目で分かる程、不可逆的に壊滅していました。
「酷いな」
 つい言葉が漏れたくらいでした。絶望と落胆が混然一体となって同居し、私の視野を狭めました。腰を下ろした途端、涙が自然に溢れてきました。ここまで何のトラブルもなく生きてきた私にとっては、最大のピンチでした。他の夫婦と同じように、これから子供を産み育て、幸福な家庭を築いて行こうと思った矢先に。
 私はトイレで泣きました。嗚咽しました。なぜ、寄りによって「人には言えない××」は私を選んだのでしょう。納得出来ませんでした。悔しくて仕方ありませんでした。真剣に泣くことでしか、「人には言えない××」の存在を意識から遠ざけておく方法はありませんでした。

 夢でした。涙を流したまま、私は布団の中で目を覚ましました。違和感はもう嘘のようになくなっていました。私は直ぐにトイレに向かい確かめました。夢の中で見、感じていた「人には言えない××」の痕跡は、跡形もなく消滅していました。
 神様は意地悪過ぎる、私はトイレットペーパーで頬の涙を拭き、三十年分の安堵の溜め息をついてから、仕事に向かう支度を始めました。

 その日は、昨夜のお詫びにと、今度は私の方から妻を誘いました。しかし今度は妻の方が「調子悪いの」と頑なに私から身を離して、顔を背けました。
随分背中を丸めていましたので「お腹痛いの?」と聞くと、妻は「違う」と動かずに答えました。
「大丈夫?」
 妻は答えにくそうに、何かを隠しているようでした。
「人には」
「え?」
「人には言えない××が」
「人には言えない××って」
 私は耳を疑いました。夢から目覚めたのではなかったのでしょうか。なぜ妻が「人には言えない××」を知っているのでしょうか。
 同時に、私は不快な気配を感じました。これはつい最近経験したばかりの、あの感触でした。確認しなくても、それを確信しました。どうやら私達夫婦は二人して、「人には言えない××」オーナーになってしまったようでした。
 夢だろうと現実だろうと、私達はそれぞれ「人には言えない××」を背負い、夫婦で共有し慰め合うことも叶わず、絶好の子作りのタイミングを棒に振り、悶々とした不眠の夜を過ごさなければならないのです。
 妻はいよいよ啜り泣きを始めました。私も泣きたい気持ちで一杯でした。妻には何の落ち度も罪もありません。私はともかく、妻だけは解放してあげたいと心から思いました。
「人には言えない××」問題を解決する方法、どなたか知りませんか? 不思議なことに、インターネット検索では全く引っ掛からないのです。こんなことは初めてです。世の中に起きる現象の情報は、必ずネット上にありましたから。
 一体全体、「人には言えない××」とは、具体的にどういうものかですって? 
 申し訳ありません。それをお伝え出来ないことが何より辛いのです。何せ「人には言えない××」ですから。(了)

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