「ああ、もう」と言って、妻はいよいよ半身を起こした。その不快な音に、私も気になっていたところだった。
「本当イライラする。ほら、あなたも起きてよ」
 時刻は既に午前零時を回っていた。明日は早朝から支度を始めて家族で海水浴に行く予定だった。
 照明を点け、中途半端に覚醒している意識を部屋の壁に無理矢理集中した。
「いた!」
 妻は中腰の姿勢で素早く宙を叩いた。手の平を確認し、直ぐに失敗したことが分かると、ちっと舌打ちして再びまだ近辺にいるはずの蚊を追った。ただでさえ冷房が切れて寝苦しい上に、たかが蚊ごときに貴重な睡眠時間を削られるのは許せなかった。妻は運転出来なかった。行きも帰りも、私が運転しなくてはいけなかった。
「あなた、そっち、ほら」
 ぼうと突っ立っている私の身体に衝突しながら、妻は何度も襲撃を試みるものの、仕留めることは出来なかった。「頭に来る」 
 妻は一旦むきになると、自身納得のいく解決が出来るまではどうにもならなかった。私もいよいよ本腰を入れて、真剣に周囲を見渡した。耳元に度々飛来する羽音は、思い出しただけでも鳥肌が立った。蚊そのものというより、無防備に横たわる人の身体を、舌なめずりして物色しているその気配が不快でならなかった。
 それから二人掛かりで部屋の中を探し回るものの、姿を見つけることが出来なかった。どこかに潜んでいるのは間違いないのだが。
「どこ行った?」と私は妻に聞いた。
「殺気感じて隠れたかしら」
「他の部屋に行ったのかも」
「綾の部屋は閉まってるわよね? あの子刺され易いから」
 妻は娘の部屋のエアコンを確認し、寝顔を確認してからそっと扉を閉じた。
「早く寝ないと明日に響くよ」
「次見つけたら、絶対」
「でももう横になろうよ」
 興奮冷めやらぬ妻をどうにか宥めて床に就かせると、私も冷却枕を反対にして眠ることに集中した。早く寝なきゃという焦りと天井を向く耳の穴付近にどうしても意識が向いてしまうのを、何度も打ち消そうとした。
 間もなく、妻の方から寝息が聞こえてきた。規則正しい「すう」と「はあ」が乱れた空気を整えた。そのリズムにようやく私もうとうとし始めた。お願いだから、そのまま朝までじっとしていておくれ。
「ああ、もう!」と妻は頓狂な雄叫びを上げ、さっきより激しく跳ね起きて、電気を点けた。

 以来、我々は夜通し何度も同じ行為を繰り返した。妻はさすがに憔悴していた。日頃冷房をつけっぱなしで寝ることに妻は反対だったが、これだけ体が熱を持ってしまっては、いよいよ観念した。
 それでも蚊は何度も我々を挑発しては姿を消すことを繰り返した。時間だけが刻々と過ぎて行った。
 せっかくうとうとしたと思えば、例の音。
 妻はその度に寝返りを打ったが、起き上がる力はもう残されていないようだった。何か寝言が聞こえた気がしたが、言葉がはっきり聞き取れなかった。本当に妻が言ったのかどうかも怪しかった。意識が聴覚を通り越す音のデジャブ。妻はタオルケットを頭から被った。
 私は天井を見つめた。目を閉じるとかえって感覚が鋭敏になった。豆電球の弱い光の傍に、黒い点があるのが見えた。それはじっとそこに留まっていた。蚊かもしれないし、そうでないかもしれなかった。今となっては、もうどちらでも良かった。起床予定時刻まで、あと一時間を切っていた。

 羽音が聞こえた。私は体を反射的に起こした。妻は私に反応することなく、じっとしていた。タオルケットを被ったまま、前と全く同じ姿勢で眠っていた。
 本気で、殺そうと私は思った。睡眠には絶望していた。今眠ったら却って危険だった。それより、このまま眠れずに終わったというだけでは私の気が済まなかった。せめて、大の大人二人を一晩中振り回し続けたおとしまえをつけてもらわないことには、今日を終えることは出来なかった。一匹の蚊にこれほどの殺意を感じたことは、生まれて初めてだった。
 照明を点けて、くまなく部屋中を見渡した。もう何度も繰り返している行為だった。ベランダではちゅんちゅん鳥の鳴き声が聞こえた。宙を彷徨う私の視線は、とある場所に釘付けになった。妻の足。くるぶし。
 むき出しになった白い妻のくるぶしに、奴はいた。私は息を飲んだ。口先を突き立て、悠々腹を満たしていた。良く見ると、微かに羽が上下に動いているのが分かった。
 腹を膨らませている今こそ仕留めるには絶好のチャンス。私はゆっくり妻の足元に近付いていき、手の平を振り下ろす頃合いを見計らっていたが躊躇した。ここで蚊を叩けば、やっと入眠できた妻が目覚めるのは間違いなかった。加えて、私の手にはひしゃげた奴の亡骸と、妻のくるぶしが血で染まるのも必須だった。
 待てよ、と私。血を吸った蚊は、それ以上獲物を探す為に空を舞う必要はないのではないかと。そもそも飛べるかどうかすら怪しい。退治するのではなく、ただ単に血を吸わせてやれば良かったのだ。そうすれば、私も妻も安眠出来たのだ。たった一か所一瞬間、どちらかが痒くなるだけの話だ。何故もっと早い段階で気付かなかったのだろう。
 私は静かにその場を離れ、台所で冷たい麦茶を三杯飲んだ。洗面所の鏡に映る自分の顔は酷いものだった。目の下の隈。まとまりのない髭。腰のない潰れた髪。この顔で、数時間後には伊豆の砂浜でぎらぎらした太陽の光を浴びているのかと思うと、甚だ不自然だった。ところで、ベランダの折り畳み椅子は車に積んだのだろうか。
 ベランダに出た。椅子は既に妻が積み込んだようだった。あと十分もすれば、妻と娘の目覚まし時計が一斉に鳴るはずだった。東の空は赤茶色の膜が星を飲み込み、昨日の終わりを告げていた。既に気温はかなり上がっていた。今日も灼熱の一日になりそうだった。
 目の前を、悠然と一匹の蚊が横切った。胴体は小枝のように褐色で、足はミシン糸のように細く長かった。大丈夫、こいつは人を刺す蚊ではない、私は勝手にそう決めつけた。蚊は既に目の前から消えていた。全く、どいつもこいつも。
 ベランダの欄干を両手で掴みながら、私は何度も「これから家族で伊豆に行くのだ、行かねばならぬ」と言い聞かせた。決意し続けていないことには、猛烈な睡魔に今にも押し潰されそうだった。(了)

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