下着を捨てた途端、女の何かが

 もうすぐ三十路を迎えるその女には、ある性癖があった。使い古した下着を捨てられないことだ。少なくとも高校生の頃から買った下着は一枚たりとも捨てることなく、タンスとクリアケースに保管していた。時々引っ張り出しては、一枚ずつ和室に並べて、思い出と共に愛で慈しんだ。既に糸が解れたり、生地が痩せた物も多くあったが、生ごみと一緒くたにして捨てるというのは余りにも忍びなかった。
 下着は身体の一番デリケートな部分を覆っていた。繊細な刺繍や外観のデコレーションとは裏腹に、内部は汚辱にまみれていた。一日も休むことなく、入れ替わり立ち替わり、女の粘液や排泄物を引き受けた。粘液や排泄物を快く受け入れられるのは、愛する人と下着くらいだった。従って「下着を捨てる」という行為は、恩を仇で返す、あるいは愛する人を裏切る非人道的行動に思えてならなかった。
 女はこれまで男との縁がなく未だ独身だったが、友人や同僚の殆どが結婚し、子供が生まれるという知らせを受けると、次第に焦りを感じるようになった。
 女は信心深かった。縁がない理由として、立て続けに二人の占い師に「下着が捨てられないこと」を指摘された。これには驚いた。やむなく、女はいよいよ下着を処分する方法を考えた。処分といっても、やはり可燃ごみに出すのだけはご免だった。ごみ収集車に他のごみと撹拌される様を想像しただけで、胸が引き裂かれる思いだった。
 そんな折、町会の掲示板に「お焚き上げ」を知らせる神社の貼り紙があった。対象物には「遺品」や「人形」などの他に「下着」という文言があった。女は目を見張った。下着を焼いて供養するというわけだ。その発想はさすがに信心深い女にもなかった。ネットで調べてみると、その神社は下着を供養する全国有数の場所として話題になっていた。灯台もと暗し。女は早速下着を部屋の床に並べ、「成仏するんだよ」とお別れの言葉を一枚一枚唱え、涙した。

 神社は平日にも関わらず、多くの人で賑わっていた。「絵馬掛け所」の隣に下着を奉納する棚があった。女は後ろ髪を引かれる思いで、二つの大きな黒いポリ袋を置き、しゃがんだまま別れの手を合わせた。
 これからは占い師の言う通り、前だけ向いて生きていこうと心に決めた正にその時、女はあることに気が付いた。今、身に着けている下着のことだった。これも過去に買ったものと言えばそうじゃないかと。
 一度気になり出したら、女は居ても立ってもいられなかった。女子トイレに駆け込んでブラジャーとショーツを脱ぎ、ダウンジャケットのポケットに突っ込んで、奉納済みの袋に追加した。
完璧だった。これで全ての下着をなげうった。何も下着をつけていないことがこれ程心許ないものだとは思わなかった。まるで裸で外を歩いているようだった。一刻も早く家に帰りたかった。
下着を詰めたビニール袋は、袈裟を着た僧侶に丁寧に引き取られていった。焼かれる様子を見るつもりはなかった。心残りはもう一度、我が分身に別れを告げたかったことだった。
 社務所では、絵馬や御札の他に下着が売っていた。おおよそシンプルで無地のものが何点かあるだけで選択の余地はなかった。女はショーツを一枚買って、トイレで履いた。生地が綿ではなく紙なのではないかと思う程、酷い履き心地だった。
 そのまま駅近くの行きつけの店に向かった。人生の再出発を飾るに相応しい、これまで選んだこともないようなビビットな下着を何点か買って自宅に戻ると、女は下着を履き替え、直ぐに社務所で買ったショーツをごみ箱に捨てた。記憶を辿っても、一度履いただけの下着を洗いもせずに捨てたのは初めての経験だった。
 もう今頃焼かれてしまったのだろうか、女は空になった箪笥の引き出しに新しい下着を並べながら、少し後悔した。刃の鋭いかんなで柔らかい木材を削ぐように、身体の一部を失った気がした。人生の節目にはそうしたことも必要なのだと、女は自身に言い聞かせた。過去の執着を断ち切った己の決断を、勇気を、褒めることだけ考えた。時計は午前零時を回り、女はまた一つ年を重ねた。

 チャイムが鳴った。下着の供養から四十九日が経過していた。「今度隣に住むことになりました、〇〇です」
 ソファのまどろみから覚醒した直後で、名前の部分が上手く聞き取れなかった。若い男だった。女は扉の覗き穴から男の姿を認めると鍵を開けた。よろしくお願いします、と物静かに男は言った。中々のイケメンだった。背が高く、粗品を手渡す指は白くすっと伸びていた。ひょとして、と女の胸は高鳴った。男が帰った後も、しばらく女の頭の中では男の声と表情が輪廻していた。早速のご利益。ちゃんと名前を確認しなかったことを、女は後悔した。
 粗品はタオルのような柔らかい感触の物だった。未だ鼓動は鎮まらなかった。「粗品」の表紙をびりびり破き中身を取り出すと、ジプロックの中に見覚えのある下着が綺麗に畳まれて入っていた。社務所で慌てて脱いだ最後の下着だった。自身の洗剤とは違った匂いがした。その下着の意味が女には理解できなかった。
 ダイニングのマグカップを流しに置き、ユーチューブのBGMを止めた。ベランダから眺める月は、まるで天空にぽっかり空いた「向こう側」への入口のように輝いていた。どこからか、煙草の匂いがした。隣の部屋のベランダから、白い煙が風に乗って女の鼻頭をかすめた。
 女は自身の行く末について考えた。過去の下着はもうこの家にはないのだ。そう思うと、涙が止まらなかった。スウェットのズボンを脱ぎ、履いたばかりの真っ赤なショーツを夜空に放った。ショーツはアスファルトの市道の中心に着地し、街路灯の光をはねつけた。ふう、と大きな溜め息が一度だけ聞こえ、間もなく、扉を閉める音が隣から聞こえた。
 もう一生、占いも神社も信じるのは止めよう、そう決意を固めた女の目前で、路上のショーツを拾い上げる僧侶の姿は、まるで一昨日見た夢のように大きく歪んでいた。
歪んでいた。(了)

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