老いぼれ

 二人で会うのは、今回で三度目だった。女はシングルマザーで実家に住んでいた。両親と息子が帰省中で、明日の夜まで女だけだった。男としてはホテルの方が気楽だったが、「こういう時じゃないと、手料理を食べてもらえる機会がないから」という女側の提案だった。初めてのデートで男がそう言ったのを、女は聞き逃さなかったが、男にはそれほど深い意味はなかった。「手料理を食べてみたい」というのは、男女が付き合い始める頃に使う社交辞令みたいなものだった。別にどうしても食べたい訳ではなかった。
 駅から歩いて少しの住宅地に女の家はあった。壁には染みが広がり、門扉は錆び、狭い車庫にはバンパーの一端がへこんだ軽自動車が止まっていた。表札は間違いなく、女の苗字だった。
 話で聞いていたイメージとはかなり違っていた。両親は国の役人で、沢山の年金を貰っているという話だった。女は、大手町にある商社の正社員として働いていて、控えめだが、雰囲気のある小綺麗な女性だった。一見、子持ちのシングルには見えなかった。
 男と女は、元々同じ職場だった。男は上司で女は部下だった。年齢は女の方が五つ上だった。入社一年で女はよその会社に転職した。「親の介護」と女は言ったが、現実は「給料をもっと多く出すから」という引き抜きだったことを後で同僚から聞いた。シングルの足元見やがって、と上司である男は思ったが、その程度の給料も払えず簡単に引き抜かれる自社も情けなかった。送別会の翌日、女から「会社に未練はないけれど、あなたとはもっと仕事したかった」とのショートメールを受けた。
 男は仕事も家庭にも疲れていた。執行部と部下との板挟み。妻の小言に子供の受験。もううんざりだった。家にいても会社にいても窒息しそうだった。
「飲まないか」と男は誘った。女は一も二もなく同意した。正直、男は女なら誰でも良かった。二人はその日のうちに関係した。
「シングルの人を誘うのは、いけないことだと思っていた」
 ベッドの中で、男は詫びた。
「多分そうなんだろうな、と思ってたわ」と女は笑った。最初の印象より、目尻の皺が思ったより強調されて見えた。酔いが醒めてきている、と男は思った。「次はいつ会える?」と女は聞いた。「今月はちょっと難しいよ」と男は答えた。お金が枯渇していた。大した給料を貰っていないサラリーマンがそんなに次々女と会える訳ない。
「一か月後はどう?」
「寂しいけど、仕方ないね」
 その日から一度デートを挟んだ三か月後、男は女の自宅に招待された、というわけだ。

 部屋に上がると、大小様々の絵画が居間に飾ってあった。どれも抽象的で、モチーフの原型すら留めていないものばかりだった。しかも、そのほとんどが暗く、空間に澱んでいた。
「知り合いから貰ってるみたいで」と女はエプロンの紐を腰に巻きながら言った。「直ぐ用意するから、ちょっと待ってね」
 ソファには、毛くずが散らばっていた。男はなるべく毛の少ない場所に腰を下ろした。エレクトーンもカップボードもミシンも昭和の名残だった。余りにも大人しいのでしばらく気が付かなかったが、座布団大のマットの上に、小型の白い犬が布団をかけて眠りこんでいた。
「老犬なの」とダイニング越しに女は言った。
「何歳?」
「十六歳」
「それはそれは」
「もう、そろそろかなって思ってるわ」
 男は犬に全く興味がないどころか、十六歳が長生きなのかどうかも分からなかった。正直、犬は嫌いな部類の動物だった。犬がいると知っていたら、自宅にはこなかったかもしれなかった。
「ごめん、ニンニク切らしてた。ちょっと買ってくる」
「ああ、俺が買ってくるよ」
「ううん、お願い、ゆっくりしてて。シャワーの用意してあるから入ってて」
 上着を羽織り、自転車の鍵をわし掴んで、女は玄関を閉めた。男はどうして良いか困っていた。シャワーをいきなり浴びろと言われても、女のいない間に裸になるのはさすがに憚れた。
それにしても恐ろしく写真のない家だなと男は思った。四方の壁に隙間なく娘の写真を貼りまくる男の家とは大違いだった。確か小学三年生くらいの男の子がいるはずだった。男子の家というのは一般的にこういうものなのだろうか。
 箪笥の上に仏壇が乗っていた。若い男の写真が飾られていた。女にはあまり似ていなかった。キッチンの鍋は、定番の「肉じゃが」だった。じゃがいもの切り口からして、煮込みがまだ足りてない感じだった。まな板には鷹の爪とパスタ。ニンニクはきっと、ペペロンチーノに使うものなのだろう。それにしても、ペペロンチーノをやるのにニンニクを切らすとは随分お粗末じゃないのか。
 換気扇のフードは油にまみれ、ガラスの食器棚の扉は手垢だらけだった。食べかけのドッグフードが皿に入れられ、冷蔵庫脇のスペースに置かれていた。
 テレビでも点けようと思ったが、リモコンの所在が分からず諦め、替わりにスマホカバーを開けると、未読のラインメッセージが五十近く溜まっていた。男はうんざりしてラインに繋ぐことなく、そのままカバーを閉じた。
 ぱたんという音と同時に、犬と目が合った。犬はいつの間にか目覚めていた。種別はマルチーズに見えたが、実に貧相に見えた。これ程貧相な犬を見たのは初めてだった。毛もほとんど抜け落ち、染みだらけの胴体の皮膚が透けて見えた。片方の目は殆ど真っ白だった。舌を揺らし、体を小刻みに震わせながら、男を凝視していた。男も負けじと、わざと敵意をむき出して睨みをきかせた。
 うぉう、と犬はいよいよ吠えた。しかし喘息のように力強さはなかった。犬の仕草を見なければ、吠えているとは分からない程だった。
 男は更に睨み返した。おいぼれのくせに。犬は男に歩み寄り、残り五十センチになったところで、もう一度、うぉう、と吠えた。恐怖は微塵もなかった。むしろ痛々しく哀れだった。とてもあの彼女が飼っている犬には見えなかった。
 男はつま先で軽く犬の腹を押した。ちょっとかまうつもりだったが、犬はその場に横倒れたまま、ぜいぜいと呼吸音だけを残して、ぐったりしていた。しかし片方の目には、いつまでも激しい敵意が宿っているのを、男は感じていた。
 何もかもが、みすぼらしく弱々しかった。そんなこと、最初から分かっていたことだった。二、三度寝ただけの女の家など、来るべきではなかったのだ。
 男は鞄の持ち手を握り、かかとが擦れた革靴を履いた。明かりは点けたままだった。明かりを消したら、この家の何もかもにとどめを刺すことになりそうな気がした。そして、自分自身の人生にも。
 向こうの部屋で、うぉう、という鳴き声が聞こえた。男はそれを機に、逃げるように女の家を飛び出した。(了)

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