「物書き」としての僕の使命。

物書きとしての“使命”の話の続きです。
こんな僕でも、次作を楽しみに待っていてくれる人がいます。

「仕事に家庭に大変だとは思いますが、執筆頑張って下さい」

感想でいただくこの一言が、今の僕にとっては何よりの励ましになります。
少なくとも、その方にとって僕の“存在理由”は存在しています。
これをもっと突き詰めていくと…。

僕の書いたものを読む、ということは少なくとも、彼(ないしは彼女)の貴重な時間の一部を「読む」ことに割いていただくわけで、それは長いものだと30分くらい(単純に原稿用紙の枚数でいけば『ラブドールズ・ライフ』という小説が僕が書いた小説では一番長くて150枚くらい)、短い掌編(「ポケットノベル」という1,500文字小説)だと1~2分。

読み手がどのような環境、状況で読んでいただいているのかは、ケースバイケースです。電車の中かもしれませんし、陽だまりの庭先かもしれません。夫婦喧嘩でくさくさした合間かもしれませんし、受験勉強の息抜きかもしれません。

いずれにせよ、何らかの形で僕の小説に触れ、幾らかでも読者の皆様に癒しや慰めのようなものの欠片を与えられたとしますね。短い時間であっても、現実の嫌なことを忘れることができたり、ほっとしたり、はらはらしたり、ドキドキしたりしながら、ささやかな幸福感を得ることができたと。

もちろん、その反対だってあるわけです。「貴重な時間を無駄にしちまった」と。ただ少なくとも、読んでみて「楽しかった」「良かった」と感想をもらえた方にとっては、僕は存在し、存在理由があったわけです。

そこで、僕の「使命」の話。

『超多忙な「今」を生きる同時代人に、ささやかな「息抜き」と「癒し」の場を提供すること』

企業理念的に大仰に言うとそんな感じになるのかもしれません。
まあ、もう少し巧い表現の仕方はあるのでしょうけど、エッセンスはそんなところでしょうか。その手段として、僕は「小説」というツールを選択し、ウェブで公開している、というわけですね。

こういうことは、感覚では理解していても、こうして明文化し「見える化」すると、周りの情報に振り回されて、気持ちがふらふらした時や萎えた時に、いつでも立ちかえる場所、拠り所になります。

今まで漠然と小説を書いている方がいたら、ちょっと時間を割いて考えてみたらいいかもしれません。

一体、自分は「何のために」小説を書いているのか、と。

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