玉ねぎの神様

玉ねぎの神様

 「玉ねぎ」と聞いて思い出す事は、僕がまだ東京という田舎に住んでいた子供の頃の話だ。 そこでは、町の至る所に玉ねぎが転がっていた。当時は「転がっていた」とか「散乱していた」などと表現する事はタブーであり、町会長に知られた...

孤独

孤独

 またか、と老人は思った。今年に入って既に三人目だった。 この辺りの住人は、妻に先立たれたり離縁したりで身寄りのない年寄りばかりだった。大抵は認知症を患い、何人かは犬を飼っていた。人知れず横たわる亡骸に、餓死寸前の犬もま...

不倫の末路

不倫の末路にある、あまねく倦怠的な

 ソファの肘掛けはひび割れていた。今までここで何組の男女が粘液を交わし合ったかを思うと、せめて下着くらいはきちんと着るべきだったと後悔した。「次はいつ会えそう?」 口紅を塗る前の最後の口付けを交わした後で、女は聞いた。「...

おにぎり

おむすび

 サランラップに包まれたまん丸のおむすびが一つ、路上に落ちていた。朝時間がない中慌てて握ったのか、海苔も巻いていないシンプルなおむすびだった。綺麗な街並みが人気の住宅地なので、道の中心にあるべきものとしては余りにも不似合...

こだわり

こだわり

 昨年九月十日、その日は既に不穏の気配を孕んでいた。空は厚い雲で覆われ、早朝から夕刻の様な暗さだった。台風は太平洋岸をなめるように進行していた。風雨に耐えられるよう、私はいつもの倍の時間を掛けて、入念にドライヤーを当てた...

水漏れ

水漏れ

 三日前からこんな感じなの、と妻は蛇口のレバーをゆっくり上下させながら言った。継ぎ目から、水が漏れていた。操作の仕方によって、じんわり染み出す時もあれば、飛沫が噴き上がる瞬間もあった。「直せる?」「パッキンだとは思うけど...

畜生

畜生

 ケージの扉は開いていた。内側から外す事は、いくら狡猾な動物でも容易い作業ではなかった。今朝、餌をやる時にロックをし忘れたのだと、母は悔いた。「帰ってきたらいなかったよ、ママ」と息子は言った。「家中探したけど、何処にもい...

あるクリーニング屋の日常

あるクリーニング屋の日常

「以上三点で宜しかったですか」と、受付の子は言った。その時の俺は、実に酷い身なりをしていた。寝癖のついた髪、未処理の髭、伸びたロンT、ゴムの緩んだスエットパンツ。いかにも、休日の朝妻に叩き起こされ、クリーニング店に使いに...

チチガシラ

チチガシラ

 洋司の出勤を待っていたかのように、電話は直ぐに掛かってきた。夜を共にした翌朝は、いつもラインを使う筈だった。「おはよう。昨日は」「ねえ、ないの」「何が?」「チチガシラ。たぶんホテルに忘れてきたんだと思う」 憔悴した雪江...

若きセールスマン

若きセールスマンの安息

 今月のノルマまで、もう一息のところまできていた。この仕事が合う合わないというより、当座の生活費を稼ぐ為には必死だった。「東京都水道局の方から来ました。今無料で水質検査を行っておりまして」 白髪を油で固めたスウェット姿の...

歩行障害における夫婦間共時性に関する考察

歩行障害における夫婦間共時性に関する考察

 それは、会社近くのスクランブル交差点で起きた突然の出来事でした。何の前触れもなしに脚が動かなくなってしまったのです。もう幾度となく行き来している通勤経路ですし、少なくとも自宅から電車に乗り、その交差点までは問題なく歩い...

盗難

盗難

 終電の改札を抜けて住宅地に入ると、突然人影はなくなった。週始めから飲んだくれている奴など、この町にはいないのだ。路面は今しがたまで降り続いていた雨で濡れ、街路灯の明かりが染みのように反射していた。越してきて間もない男の...

カウンター

カウンター

「ごめん」と、夫は妻に言った。「一日に何度謝れば気が済むのよ」 妻は四六時中苛立っているように見えた。理屈や真実はどうであれ、まず最初に詫びておかないと、事態はより悪化するように思えた。「ごめん」「馬鹿にしてる? あたし...

ティーグラウンド

ティーグラウンドより愛をこめて

 砲台になったティーグラウンドの遥か彼方に、最終ゴールの旗が見える。下ろしたてのボールにドライバーヘッドを合わせ、肩幅よりやや広めに足を開く。雲の継ぎ目から陽は零れ、名も知らぬ野鳥の囀りが無駄な力みを解きほぐす。男の一挙...

AIコンシェルジュ

AIコンシェルジュ

 駅ビルの一角にある「結婚相談所」のコンシェルジュも、今やロボットに取って代わられていた。時代と共に、人の仕事は次々と人工知能に駆逐されていた。もっとも、夥しい数の結婚希望者のデータベースから、理想の候補者をマッチングす...

欠損

欠損

 台所の一部が、失われていた。正確には、三角コーナー辺りの空間に、三十センチ四方の歪な暗闇が存在していた。僕はそれを便宜上、「欠損」と呼んだ。 欠損は一月前から突然現れ、僕に三角コーナー紛失の不都合を強いた。奇妙な事に、...

不埒な下着

不埒な下着

 洗濯ハンガーにぶら下がり、俺は風に揺れている。陽を浴びるのは一月ぶりで実に心地良い。絹の肌触りと青の光沢、そしてブリーフ特有の密着感を主は気に入ってくれたようだが、勝負下着の扱い故、日常使いのトランクス程出番はない。 ...

布団(短編小説「熟睡」)

熟睡

 何時まで寝てるのよ、と頭越しに妻は怒鳴り、玄関にごみ袋を放り投げた。代休なのに朝寝坊も出来やしない。混線した寝癖を水で撫で付け、ダウンコートを羽織った。一日出し忘れたからといってどうだというのだ。トイレの汚物をドラッグ...

夏祭りの屋台

たくらみ

 夏祭りの夜、少年は、とある企みが気掛かりで中々寝付けなかった。夜中に何度も目が覚めて時計を確認した。早く朝になって欲しかった。いや完全な朝ではなく、夜の終わりくらいの時間に。 4時半。隣に母の気配がないことを確認すると...

タイムカプセル

タイムカプセル

 実家の父親から送られてきたそのタイムカプセルを、晴美は床に転がしながら足の裏で弄んだ。普通の大人であれば、小学生の頃のノスタルジーに心ときめかせるはずが、今の晴美には、まるでどろりとした鉛のプールに浸かっているようだっ...